田辺国際交流協会運営委員 田中志門


プノンペンに宿泊した日の翌朝、市中心部から北西15kmほど離れたころにあるチュン・エク村のキリングフィールドを訪れました。キリングフィールドとは、ポルポト政権時代(197
5年〜79年)に、革命組織(アンカー)に反逆するものとされた人々が処刑された場所の名称であり、チュン・エク村にあった処刑場では、約2万人の人々が殺害されたとされています。現地に向けて車で出発し、市街をあとにすると間もなく未舗装の道にさしかかり、土煙の立ちこめるなかを揺られながら、しばらくのどかな田園風景を眺めていると、湖のほとりにある建物がならぶ一角がみえてきました。

入口の門をくぐると、まずそびえ立つ白塗りの慰霊塔が目につきました。この建物の正面にはガラス張りの大きな扉が設けられており、近づくにつれて内側に積み上げられている無数の頭蓋骨が目に入ってきました。慰霊塔には自由に出入りすることが許されています。塔の内部には、ガラスで囲われた納骨場所があり、そこに収納された8000個以上の頭部の遺骨、および犠牲者の遺品である衣服などを間近にみることができました。

キリングフィールドの構内に入りまわりの景色に目をやると、さまざまな大きさの墓穴が、掘り起こされたまま残されているのが見渡せます。現在この場所には129箇所の墓穴が存在するとされ、そのうち86箇所が発見済みであり、最大のものからは450人の遺骨が発見されているようです。いくつかの墓穴の傍には、発掘が行われた当時の状態を記した掲示板がたてられており、それらを読むことによって、この地でおこなわれていた処刑の様子をうかがい知ることができます。例えば、女性と子供の遺体のみが埋められていた墓穴、遺体のすべてが頭部のないものであった墓穴など、それらの状況からポルポト政権の行った無軌道な虐殺の特徴を印象づけるものが残されています。

この場所では、備蓄の限られていた銃弾を節約するために、銃殺ではなく棍棒による撲殺という方法がとられたようです。政治犯の嫌疑をかけられ、監獄などで尋問、拷問をされたあげくキリングフィードに連れてこられた人々には、目隠しをされ、後ろ手に縛られ、後頭部を殴打されあとそのまま穴におとされ埋められるとういう運命が待ちうけていました。

構内を歩いていると墓穴の中、道端などに、処刑された犠牲者が身に着けていた衣服の切れ端が、土に紛れて落ちているのを目にしました。また慰霊塔の近くには、そこに幼少の子供らが叩きつけて殺されたという1本の木が残されおり、無惨な処刑の記憶を留めています。現地に足を踏み入れ、今も残る生々しい惨劇の痕跡を目の当たりにすることにより、この地で無慈悲な殺戮が行われたのは遠くない過去の出来事であることにあらためて気付かされました。

ポルポト政権時代には、共産主義の理念に沿って、市場と通貨の廃止、宗教の禁止、家族の分離、伝統文化の否定、教育の撤廃などの施策が実行にうつされました。結果として社会の破壊と、多大な混乱がもたらされ、約4年の間に150万人ものカンボジア人が死に追いやられたといわれています。そのほか、反革命の嫌疑をかけられ、裁判をうけることもなく処刑されされた人々の数は少なくとも20万人にのぼるとされています。キリングフィールドに残る殺戮の跡形から、ポルポトの率いる革命勢力が行った無差別虐殺の事実の一端を知ることできます。今回のこの地の訪問は、ポルポト政権下においてカンボジアにもたらされた犠牲の大きさについて、そして革命の理念が、自らの民族に対する虐殺に帰結した歴史的事実の不可解さについて考える機会を与えてくれました。